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日記

パターソン

http://paterson-movie.com/

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ストーリーの内容を含みます

 

方方で良い評判を聞いたので、上映終了日の間際に滑り込むように観に行きました。

二人がベッドで目を覚ますシーン。向かい合ったり、背を向けたり、抱いていたり。毎朝の瞬間が息を飲むほど美しくて、羨ましい。

ところが、妻ローラの日中の姿への拒否感が、私には最後まで拭えませんでした。彼女のwanna beな振る舞いやエキセントリックなデザインの嗜好が、どうしても受け付けない。不思議な料理、怪しいギターの購入といった妻の行動に対して、パターソンの浮かべる複雑な表情も、夫婦を裂いてしまうような出来事の予兆のように感じられ、終始はらはらしながら観ました。

それでもドラマは幾つかの事件を経ながらもつつがなく進行します。この映画において、何かを愛するという行為は、決して損なわれることがない。それがパターソンという人であり、パターソンという街です。すれ違いを暗示する場面が幾度とあっても、二人をつなぐものは脅かされず美しいまま。失恋の折に暴走した男も、諌められこそすれ疎外はされないし、恋慕の気持ちが男の中からも失われてしまうことはありません。カントリー歌手を目指すにしては少しお粗末なギター演奏にも、優しい目が向けられます。カップケーキもたくさん売れる。そして、ノートが不幸な事故によって破かれてしまっても、詩は再び書き綴られます。

そういった意味で、ローラの振る舞いに感じた「ずれ」のようなものは、半ば意図して描かれていたのでしょう。愛は、質や評価といった事項とはまるで関係なくもたらされるものです。パターソンの詩も、他人からの評価という形で曝されることはありません。同じく詩を書くことを日常としている少女や日本人の男性にすら、パターソンは自分の詩を披露しません。おそらく、ローラに自分の詩を読み聞かせるシーンも劇中には無いのですが、ローラはパターソンの詩が素晴らしいことを知っています。評価という概念の無い、生の声で、ただ素晴らしいと言うのです。映画の隅々まで徹底されたその純粋さが、パターソンの町並みを詩的に映し出します。

ここまで書いてようやく、この映画に対する整理がつきました。もう一度、今度はもっと純粋な眼で観たくなるような、そんな映画でした。

月曜日

授業のため、7時ごろに起きた。寒い日だった。水筒にあたたかいコーヒーをいれて持ち運ぶ季節になった。

研究室で仕事をした。一日中眠くていらいらしていたので、塾講がうまくいかないだろうと危惧していたが、むしろいつもより自然に振る舞えた。多少奮発して食べた昼ご飯がよかったのかもしれない。海鮮丼。

 

10月15日

13時過ぎに起きた。

毎週の習慣となっているバンドの練習でした。天気は雨。駅から徒歩で向かっていたところ、クラクションを鳴らされました。それが端に寄せようとして邪魔な私を追い出すものではなく、馴染み顔のバンドの一員が私を呼ぶものだと気づくのに、逃げようと駆け足で走りだしたあとで気づきました。結局無事に拾われ、練習場所に向かいます。

音楽に求めるべきものは何かというのを、またぐるぐると考えていました。昔の私の出した結論は、かっこよさであったり、無機質さであったり、緊張であったり、癒しであったりしましたが、今日の私は、音楽はさしづめ偏執的であることが大切であろうと合点しました。

10月5日

私にとっての就職活動なるものが突然始まった。衣服も何も準備していなかった。実際に動き回るのは来月あたりだろうから、などと暢気に考えていたが、どうやら写真を撮るのにも要るようで、慌てて買いに行った。

気合の入った買い方をせず、スーツやらネクタイやら鞄やら、とりたてて必要でありそうなものを一日で揃えた。全て無難な品である。あとは髪だけ、これも無難に切れば良い。

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自分と同じぐらいの年齢の家を見に行った。最後に来たのは10年以上前だと思う。今住んでいるところから大分離れたところにあるその家は、親の転勤さえなければ、本来暮らしているはずの家だった。もう住むこともないので、両親はいよいよこれを売りに出すことに決めた。最後の内覧に同行することになった。

中に入る。ハウスクリーニング済というカードが見える。少しツンと臭う。貸していた前の家主が、ここでネコを飼っていたそうだ。見ると、あちらこちらに引っ掻いたような、木のめくれたあとがある。

一つ一つの部屋が、どうにも小さいように感じた。いや、十分に広い、大きな家のはずなのだ。しかし10年前に訪れた体格の小さい私からすると、かつてのこの5LDKの家は非常に広く感じられたものだった。その上、この家はたびたび夢に現れることで、その想像上の広さを一層拡張していたのだ。

外に出る。庭に植わっていたはずの芝生はほとんどなくなっており、代わりに雑草がみすぼらしく生えていた。出るときになって、柵についている扉が片方消えていることに気づいた。ちょうつがいは千切れたようになっていた。外れた扉は庭の端に立てかけられていた。

屋根の下にあったツバメの巣が無い。父親が言うには、前の家主が退去したのちに一人で見に行ったとき、2階の部屋でツバメが死んでいたらしい。部屋に迷いこんだ際に通ったのであろう通気口は、既に塞いであった。